全編の再編集・現代語訳論語
第7巻 後半
七―二八(公冶長第五―二一)
孔子が言いました。
「衛の家老寧武士は、道徳の行われている国では知者としてふるまい。道徳の行われていない国では愚か者のようにふ
るまった。その知者ぶりは真似ができても、愚か者として完全に生きることは真似のできることではない」
七―二九(憲問第一四―二六)
衛 の大臣、遽伯玉(きょはくぎょく)が孔子に使いを出した。孔子は使者を席に着かせてから近況を聞くと、使者は答えた。
「大臣はいつも自分の過ちを少なくしようと努めておりますが、まだ物足らない気持ちでおられます」
使者が退席すると、孔子は言いました。
「何という使者だろう! 何と立派な使者だ!」と誉めた。
七―三〇(衛霊公第一五―七)
孔子が言いました。
「何と真っすぐなことか史魚(しぎょ)は、邦(くに)に道あっても矢のように真っすぐで、に道なくても矢のように真っすぐである。 何という君子だろうは、邦に道あるときは仕えて才能をあらわすが、邦に道がなければ才能をくるんでしておける。こうしてこそ乱世にも害にあわずに済むのである」
七―三一(憲問第一四―一四)
孔子が孔明賈(こうめいか)に衛の大臣、公叔文子(こうしゅくぶんし)のことを質問した。
「あの方は、平素ものも言わず、笑いもせず、また贈り物も受け取らないというのは本当ですか」
孔明賈(こうめいか)は言いました。
「それはお話した者の言い過ぎです。あの方は言うべき時にはじめて言うので、誰もその言葉を嫌がらない。みんなが楽しい時に笑うので、誰もその笑うのを嫌がらない。義にかなった場合にだけ贈り物を受け取るので、受け取っても怨まれません」
「そうだろうか、本当にそうだろうか」
と余り立派すぎるので、孔子は疑いを示した。
七―三二(公冶長第五―一五)
弟子の子貢(しこう)が質問しました。
「衛の大臣、孔文子(こうぶんし)は死んだとき、どうして文という立派なおくり名を受けたのですか」
孔子は言いました。
「彼は利発なうえに学問を好み、目下の者に聞くことを恥としなかった。それで文というおくり名されたのである」
七―三三(子路第一三―八)
孔子が衛の公子、荊(けい)を評して言いました。
「財産の蓄えが上手である。初めて財産ができたときは『どうにか間に合う』と言い。かなり財産ができたときは『なんとか整った』と言い。大いに財産ができたときは『どうやら立派になったぞ』と言った」
七―三四(雍也第六―一六)
孔子が、
「衛の祝鮀(しゅくだ)のような口と、宋の宋朝(そうちょう)のような美貌がなければ、今の世はうまく渡れないものなのか」と憤慨して嘆かれた。
七―三五(衛霊公第一五―一)
衛 霊公(れいこう)のが徳には心を寄せず、いきなり軍事について聞いたので孔子は、
「祭礼のことなら承知しておりますが、軍事についてはこれまで学んだことがありません」
と言い放って、翌日衛の国を立ち去った。
七―三六(子路第一三―三)
弟子の子路(しろ)が孔子に質問しました。
「もし衛の新君が先生をお迎えして政治を任せたら、先生は何から先に手をつけますか」
「まず、主君は主君、父は父という、人それぞれの大儀名分を正すことだ」
「なんとまた先生は迂遠なこと、この際何の大儀名分を正すのですか」
「お前はまた何とがさつなんだ、君子は分からないことは黙っているものだ。大儀名分が正しくなければ話の筋が通らない。話の筋が通らなければすべてのことは成り立たない。事がならなければ礼楽は盛んにならない。礼楽が盛んにならなければ政治も道理から離れ、刑罰も公正に行われなくなる。刑罰が公正に行われなければ、人々は手足を伸ばして暮らせない。だから上に立つ者は物事は筋を通して言い、言ったことは必ず実行できなくてはならない。上に立つ者は決して軽はずみな発言であってはならない」
七―三七(陽貨第一七―七)
公山不擾(こうざんふじょう) の招聘に孔子が応じようと思った。子路(しろ)はそれを止めて言いました。
「私は昔、先生から『君子たる者は不善を行う人間の家には入らない』と教わりました。彼はに反逆したのに、何で先生は行こうとなさるのですか」
孔子は言いました。
「そのとおりだが、こんな諺もある。『何と堅固なことか!磨いても薄くならないとは。何と潔癖なことか!染めても黒くならないとは』 私もまさかでもあるまい。いつまでもぶら下がっているだけで、誰にも手がつけられないままでいるわけにもいくまい。私を用いてくれるなら理想の国を再興してみたいのだ」
七―三八(憲問第一四―二〇)
孔子が衛の霊公(れいこう)を反道徳的だと語ると、季康子(きこうし)が質問した。
「そんなありさまでも、なぜまだその国は亡ぼされなかったのでしょうか」
孔子は言いました。
「仲叔圉(ちゅうしゅくぎょ)が外交に当たり、祝鮀(しゅくだ)が祭礼を受け持ち、王孫價(おうそんか)が軍事を指揮した。これらの名臣が国事を分担していれば、国を失うはずがないだろう」
七―三九(雍也第六―一五)
孔子が言いました。
「孟子反(もうしはん)は功を誇らなかった。最も困難といわれる敗軍のしんがりを立派に努め、
まさに城門に入るとき、その馬を鞭でたたいて『敢えてしんがりを努めたわけではない。この馬が走らなかったためだ』 と言った」
七―四〇(憲問第一四―一二)
孔子が言いました。
「魯の孟公綽(もうこうしゅく)という人物は、趙や魏(ぎ)のような大国の家老となるには十分であるが、周辺の小国の大臣には適しない。大国の家老は人望があれば勤まるが、小国の大臣は用事が多く、責任が重いからそれに適さないのだ」
七―四一(公冶長第五―一九)
弟子の子張(しちょう)が質問しました。
「楚の子文(しぶん)は、三度も宰相となったが嬉しそうな顔もしなかった。三度も解任させられても不満そうな様子もなかった。そして必ず後任者にきちんと政務の引き継ぎをしていったということですが、これはどうですか」
孔子は言いました。
「それは誠実である」
「仁ではありませんか」
「その人に人間としての欲望が全然なく、すべて天の道理に従ったかどうか分からないから、仁であるかどうかは言いがたい」
「斉(せい)の家老
の崔(さい)が主君を殺したとき、同じく家老である陳文子(ちんぶんし)は馬を四十頭もの財産を持っていたが、それを捨てて亡命した。そして次の国から次の国へと行ったが『みな斉の家老崔(さい)のようだ』と言って立ち去った。これはどうでしょう」
「潔白と言える」
「仁とは言えませんか」
「その行いがいささかでも己の利害や怨みを含んでいなかったか、まったくの道義の上からのことであるかによって、仁ともなり、仁でないとも言える」
七―四二(八?第三―二一)
魯 の哀公(あい
こう)が大社(たいしゃ)に植える木について、孔子の弟子の宰我(さいが)に質問されたので、宰我(さいが)がお答えした。
「夏(か)の大社では松を植え、殷(いん)の大社には柏(ひのき)を植え、周の大社には栗を植えています。周の栗は大社で行う死刑によって人民を戦慄させるとう意味があります」
この話を伝え聞いて、孔子は言いました。
「過ぎ去ったこと言うまい。取り返しがつかぬことは咎めまい。だが宰我(さいが)の言ったことは大社を建てた目的ではない、ただその土地に適した木を社の周辺に植えて神の印にしたまでのことなので、そうした失言は繰り返えさないようにしなさい」
七―四三(憲問第一四―二二)
斉 の大臣、陳成子(ちんせいし)
が主君の簡公(かんこう)を殺した。孔子は斎戒沐浴して魯の朝廷に上がり、
哀公(あいこう)に申し出た。
「陳が主君を殺害しました。どうぞ征伐してください」
哀公(あいこう)は「季孫(きそん)、孟孫(もうそん)、祝孫(しゅくそん)の三家老に話しなさい」としか答えなかった。
孔子は退出して言った。
「私も大臣の末席に侍(はべ)る者、申し上げずにはいられなかったが、ご主君はあの三家老に話すように仰せられた」
三家老に行って話したが聞き入れられなかった。孔子は言った。
「私も大夫(たいふ)に侍る者、事の重大さと責任感から言わずにはいられなかったのだ」
三家老はの有力な
臣下であるが、平素から君を無視し、却っての氏と気脈を通じていた疑いがあったので、孔子がこのように言ってこれを戒めたのである。
七―四四(憲問第一四―一三)
弟子の子路(しろ)が完成された人物について質問しました。
孔子は言いました。
「もし魯の大臣臧武士仲(ぞうぶちゅう)」の知恵と、孟公綽(もうこうしゃく)の無欲と、卞荘子(べんそうし)の勇気を持ち、弟子の冉有(ぜんゆう)のように多才で、その上に礼楽の教養を加えれば完成された人物と言えよう」さらに加えて言いました。
「今時の完成された人物とは、必ずしもそれほどでなくてもいいだろう。利益を前にしても道義を考え、人の危急を見ては一命を捧げ、いざというときも平素の言葉を忘れないで実行する。こんな者
が完成された人物と言えよう」
七―四五(子路第一三―二〇)
弟子のが質問しました。
「子貢(しこう)どのようにしたならば、士(し)と申せましょうか」
孔子は答えて言いました。
「わが身のふるまいに恥を知り、周辺の国々に使いに出て君命を辱めなければ、士といってもよいだろう」
「それに次ぐ者はどんな者でしょうか」
「親族からは孝行者と言われ、故郷では年長者を大事にすると言われる者だ。人としての土台はできている」
「そのまた次はどんな者ですか」
「言うことがいつも信用できて、取り組んだことは必ず成し遂げる。かたくなな小人物であるが、まあその次でしょう」
「今の政治家はどうですか」
「ああ、器量が小さくて、利にさとい者ばかりで、論ずるに足らない」
七―四六(子罕第九―二九)
孔子が言いました。
「冬になって寒さが厳しくなってはじめて、松や柏(ひのき)がいかに強く緑を保っているか
がよく分かる。君子も平時には余り小人と変わったところがないように見えるが、危難の時にはじめて真価が分かるものだ」
七―四七(陽貨第一七―一九)
孔子が言いました。
「私はもう何も言うまいと思う」
子貢(しこう) が、
「先生がもし何も言わなければ、私ども門人は何を受け伝えましょう、どうかお話をしてください」
とお願いすると、孔子は言った。
「天は何を言うだろうか。何も言わないが、確実に四季は巡ってくるし、万物も成長している。それが天道というものである。聖人もその動静が直ちに道の現れで、物を言わなければ分からないものではない。言葉によって見るだけで、天道の実際の動きを考えないようではいけないのだ」
第七巻 後半終り
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