九―一(公冶長第五―二二)
孔子は教化を天下に布(し)かんとしたが、だめだとあきらめ、陳の国で言いました。
「帰らんかな! 帰らんかな! 故郷の若者たちが溢れる力をどう発揮したらよいか分からずにいる。あざやかな布地を織ったが、仕立て方を知らない若者たちが私を待っている」
九―二(述而第七―二三)
孔子が弟子たちに言いました。
「君たちは私が何か隠していると思うか、私は何も君たちに隠してだてなどしていない。私のすることはすべて君たちと一緒ではないか、それがこの私なのだ」
孔子が言いました。
「先輩の諸君たちは礼法にしても、音楽にしても素朴なところがある。そこへいくと、後輩の君たちは洗練されている。しかし、どちらかといえば、私は礼楽の本質を得ている先輩がたの方を買うよ」
九―四(子罕第九―一一)
孔子の弟子の顔回(がんかい)が嘆息して言いました。
「仰げば仰ぐほどますます高く、切り込めば切り込むほどに堅くなる。目の前に現れたと思えば後ろにいる。先生は一歩一歩導いて私の学問を博め、私を礼法によって整えた。やめようと思ってもやめられなかった。もはや私の才能は出尽くしているのだが、まるで足場があって高々と立たされているかのようで、ついて行きたいと思っても手だてがないのだ」
九―五(雍也第六―一一)
孔子が言いました。
「偉いものだ顔回(がんかい)は、路地のあばら屋に住み、一杯のご飯に一杯の汁だけだ。他の者ならその辛さに耐えられないような境遇にありながら、彼は道を求める楽しみを変えようとはしない。偉いものだ顔回は」
九―六(為政第二―九)
孔子が言いました。
「顔回(がんかい)と一日中話していても、素直に受け入れるだけなので、愚か者のようである。
しかし、引き下がってからの行動を見ると、私の教えたことを十分に発揮している。顔回は決して愚かではない」
九―七(先進第一一―三)
孔子が言いました。
「顔回は私を啓発して助けてくれる者ではない。私の言うことに何から何まで感心して喜んでいるのだから」
九―八(子罕第九―二〇)
孔子が言いました。
「私の教えを聞いて、少しも怠らないのは顔回だけだ」
九―九(雍也第六―七)
孔子が言いました。
「顔回は三月も教えたら仁に違うことがなくなり、その他のことは数日か一月で会得してしまった」
九―一〇(先進第一一―二三)
孔子の一行が匡(きょう)の地で暴徒に襲われた時、顔回ははぐれて後に来た。孔子がほっとして言いました。
「私はお前が殺されたのではないかと心配したぞ」
顔回は答えて言いました。
「先生がご無事なのに、どうして私が死ねるでしょうか」
九―一一(先進第一一―九)
顔回が死んだ時、孔子は叫んだ。
「ああ、天は私を滅ぼした、天は私を滅ぼした。私の道を伝える者を奪ってしまった」
九―一二(先進第一一―一〇)
顔回 が死に、その霊前で孔子は大声を出し、身を震わせて泣きました。後で従者が、
「驚きました。先生は先ほど大声で泣いておられましたね」と申し上げると、孔子は言いました。
「そうだったか、大声で泣いていたか。だがあの男のために慟哭しなかったら、誰のために慟哭することがあるだろうか」
九―一三(先進第一一―一一) 顔回 が死んだ時、門人が盛大な葬式を行おうとしたのを、孔子は止めた。しかし、門人たちはやはり盛大にしてしまった。孔子は言いました。
「顔回は私を父のように思っていた。ところが私は彼を我が子を葬るように、礼法にかなうようにはできなかった。あの弟子たちがそうしたのだ」
九―一四(子罕第九―二一)
孔子が顔回を偲んで言いました。
「惜しい男を亡くした。私はその進歩するのをいつも見ていたが、止まるのを見たことがない」
九―一五(雍也第六―三)
魯の哀公(あいこう)が孔子に聞いた。
「あなたの弟子のなかで、誰が一番学問好きですか。」
「顔回という者がいました。学問を好み、怒りにまかせて八つ当たりはせず、同じ過ちを二度と繰り返すことがありませんでした。不幸にして短命で終わりました。もう亡くなりました。今では本当に学問を好む者は見かけません」
九―一六(泰伯第八―五)
弟子の曾子(そうし)が言いました。
「才能がありながら無い者に尋ね、知識が豊かでありながら乏しい者に尋ねる。学問があっても無い者のように、充実しているのに空っぽのように。いやな目に会わされても仕返しをしない。昔、私の友人顔回はそのように努めたものだ」
九―一七(子罕第九―二七)
孔子が言いました。
「粗末な服を着ながら、豪華な毛皮を着た人と並んで立っても、少しも気後れしないでいられるのは子路(しろ)ぐらいであろう」
九―一八(子罕第九―二八)
詩経の『害を与えずむさぼりもしなければ、どうしてよくないことが起ころうぞ』
という一句を、弟子の子路はいつも愛唱していた。孔子がそれを聞いて言いました。
「それはそれで正しいが、それだけではまだ足りない。良いことを求める積極性が必要だ」
九―一九(顔淵第一二―一二)
孔子が言いました。
「たった一言で裁判の判決を下せるのは子路ぐらいであろう。子路はまた、約束をしたことはすぐに果たし、決して引き延ばすことがなかった」
九―二〇(公冶長第五―一四)
教えられた大事なことはすぐに実行すべきである。だから子路は、その教えが実行できないうちは、さらに新しい教えを聞くことはむしろ恐れた」
九―二一(述而第七―一〇)
孔子が顔回を誉めて言いました。
「自分を必要として用いられたらどこまでも活動しよう。捨てて必要がないならば引きこもり、学問を蓄えることに努めよう。このようなふるまいができるのは私とお前だけだろう」
そばで聞いていた子路(しろ)が言いました。
「もし先生が大軍を率いる時には、誰と共にされますか。」
「虎と素手で戦ったり。激流を徒歩で渡るような無茶をして、命を惜しまないような者とは行動は共にしない。必ず大事に臨んでは慎重で、十分に計画を練るような者と共に行動する」
九―二二(先進第一一―一五)
豪勇の子路(しろ)が琴を練習しているのを聞いて、孔子がからかい半分に、
「子路(しろ)の琴が、なんで中庸を旨とするこの孔門から出たものかな」
と言ったため、門人たちは子路を尊敬しなくなった。
それで、孔子は門人たちに言いました。
「子路の学問・修養はすでに相当なもので、表座敷には上がっているくらいのレベルにはなっているが、まだ奥座敷までには入っていないというだけだ」
九―二三(公冶長第五―二六)
顔回(がんかい) と子路(しろ)がそばにいたとき、孔子が言いました。
「どうだ、お前たちの志すところを言ってみないか。」
子路 は、
「車馬や毛皮の衣服などすべて友人と共用し、痛んでも気にしないようでありたいと思います」
と言い。顔回は、
「善いことをしても自慢せず、いやなことは人に押しつけないようにしたいと思います」
「先生はどうですか」
と子路が聞くと、孔子は言いました。
「老人からは安心され、友人からは信頼され、若者からは慕われるような人間でありたいものだ」
九―二四(先進第一一―二五)
子路(しろ) が推挙して、子羔(しこう)を費(ひ)という町の代官にした。孔子が批評して、
「子羔はまだ未熟である。あの若者をかえってだめにすることになるだろう」
と言うと、子路(しろ)は弁解して答えた。
「人民を治め、神を祭る実際の行政をすることも勉強でしょう。何も読書ばかりが勉強だと限ることもないでしょう」
孔子は苦笑して言いました。
「これだから、口達者なやつは嫌いだ」
九―二五(先進第一一―一三)
門弟たちが孔子を囲んでいる様子は、はつつましやかで、は意気揚々とし、とは生き生きとしていた。孔子はいかにも楽しげであったが、ふとに向かって言いました。
「よ、お前のその性格では普通の死に方はできないだろうな。」
九―二六(先進第一一―一八及び一九)
孔子が言いました。
「子貢(しこう)頭が悪いし、曾子(そうし)は動作が鈍い。子張(しちょう)は不誠実だし、子路(しろ)は粗雑で困ったものだ」
「顔回(がんかい)は道に対して完璧に近く、しばしば『空(くう)』の境地に達している。は自分で思いめぐらして金儲けができる。だから思慮深く事にあたれば、道にかなうだけの修行はできている人物だ」
九―二七(先進第一一―一六)
弟子の子貢(しこう)が孔子に尋ねた。
「子張(しちょう)と子夏(しか)はどちらが優れていますか」
「子張は万事にやり過ぎで、子夏はもの足りない」
「では、子張の方が優れているのですか」
「いや、何事もやりすぎるのも、もの足りないのも同じく間違いなのだ。道は中庸にある」
顔回(がんかい) の死後、孔子が子貢(しこう)に聞いた。
「お前と顔回と、どちらが上と思うか」
「私が何で顔回と比べものになりましょうか、顔回は一を聞いて十を知りますが、私は一を聞いて二を知るだけです」
「そのとおりだ、私もお前と同様、顔回にはかなわないよ」
九―二九(公冶長第五―一二)
子貢(しこう)が孔子に申し上げた。
「私は人にされたくないことを、人にしないつもりです」
孔子は答えました。
「子貢、まだお前には実行できることではないな」
九―三〇(憲問第一四―三一)
子貢(しこう) がよく人を批評したので、孔子が言いました。
「子貢、お前は賢いようだな。まあ私などにはそんな暇はないな」
九―三一(公冶長第五―三及び四)
孔子が弟子の子賤(しせん)について言いました。
「立派な人間だなあ、あの男は。だがもし魯の国に手本とする君子がいなかったら、彼もこうなれたはずがない」
そばにいた子貢(しこう)が聞いた。
「私などはどうですか」
「お前は器(うつわ)だ」
「どんな器ですか」
「祭祀に使う内で、瑚璉(これん)という一番重要なだ」
九―三二(雍也第六―三及び四)
孔子が賤民(せんみん)出身である弟子の仲弓(ちゅうきゅう)について言いました。
「まだら毛の牛から生まれた子でも、赤毛で立派な角を持っていたら、用いないでおこうとしても、山川の神々が見捨てては置かないだろう。すぐれた子なら親に関係なく出世できるものだ」
九―三三(雍也第六―一)
孔子が言いました。
「仲弓(ちゅうきゅう)は一国の主にしてよい人物である」
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