2009年2月13日金曜日

■まごころ論語 第八巻ー後半

全巻再編集・現代語訳


第八章 その人


八―三五(郷党第一〇―八)

孔子の好みは、ご飯は完全に精白されたものではなく、なますは細かく刻んだほどよかった。ご飯がすっぱく味が変わり、傷んだ魚や、くずれかけた肉は食べなかった。食べ物の色が悪いとき、臭いが悪いとき、火がよく通っていないときは食べなかった。季節はずれのもの、切り方の悪いもの、味付けの悪いものは食べなかった。肉は多くてもご飯の量を超えさせなかった。ただ酒だけは決まった量はなかったが、乱れるところまではいかなかった。市販の酒や乾し肉は食べず、みな自家製のものを用いた。食べ過ぎることもなく、ショウガは辛いのみで香りのないものである太字からのけずに食べられた。



八―三六(述而七―一二)

孔子が最も慎まれたのは、神を祭るにあたって心身を整える斎戒。国民の生死と国の存亡にかかわる戦争。そして人の生死に関する病気。この三つであった。



八―三七(郷党第一〇―一九)

他郷(たきょうの人でよるべのない朋友が死んだ時は、自分の家で葬式をさせた。朋友の贈り物はたとえ馬車のような高価なものでも、祭礼の肉でないかぎりは、拝のおじぎはされなかった。



八―三八(述而第七―九)

孔子は近親者を亡くした人のそばで食事をとるときには、十分には召しあがらなかった。お葬式で悲しみ泣いた日には、歌は歌われなかった。

八―三九(郷党第一〇―二一)

孔子は喪服の者に会うと、懇意な間柄でも必ず居住まいを正した。礼帽をつけた祭礼係や楽師を見かけると、親しい間柄でも必ず礼儀を正しくした。車上で喪服の人や公文書の木簡を背負っている者と行き会ったときは、馬車の横木に手をかけ、体をかがめて礼をした。盛大な宴席では必ず立ち上がって丁重な態度で主人に礼をした。激しい雷やや暴風のときは、万一に備え居住まいを正された。



八―四〇(衛霊公第一五―四二)

盲目の楽師(がくしの冕(べんがお会いしに来た。階段にさしかかると孔子は、

「階段です」と言い。座席に来ると、

「ここが席です」と言い。皆が着席すると、

「誰それはここに座っています。誰それはそこに座っています」

と一々知らせた。冕(べんが帰った後、弟子のが孔子に尋ねた。

「目が不自由な楽師に対する作法はここまでするのですか」

「そうだとも、これが楽師を案内するときの作法なのだ」



八―四一(子罕第九―一)

孔子は利について言われることは極めて希であった。天命は深淵にして難解でもあり、仁は広大であり誰にでも理解できるものでないからあまり話されなかった。



八―四二(八侚第三―二四)

の儀(というところの関守(せきもりが、そこを通る孔子に面会を求めてきた。

「この関所にはいろいろな賢人がやってくるが、いつも私は面会を断られたことがない。こんども是非面会させていただきたい」

というので、供の者が面会させると、やがて出てきて言うには、

「皆さん、先生が地位を失って国を離れるのをご心配に及びませんよ。天下に道徳が失われてから久しいことになります。天は先生をこの世の指導者として、世の中に道をふれまわらせているのですよ」



八―四三(憲問第一四―四〇)

孔子の弟子のが石門に宿泊したとき、門番がどこの者かと聞いた。

「孔子の一門である」

と答えると、守衛は言った。

「ああ、あの不可能と知りながら、なお道を行わんとしているあの方ですか」



八―四四(憲問第一四―四一)

の都にいた頃、ある日孔子が楽器の磬(けいを打っていると、モッコをかついで門前を通り過ぎる者が、立ち止まって言った。

「心がこもっているな、このの叩きかたは」

また、しばらくすると、

「つまらん、ひどくこだわっている。自分を認める人がいなければそのままやめるだけでいいのに。『深い川なら着物を脱ぐし、浅い川なら裾からげ』というではないか」

と言い捨てて立ち去った。そのことを聞いた孔子が言った。

「思いっきりのいいことだ、しかし別段むずかしいことではないよ」



八―四五(微子第一八―五)

の変人接與(せつよが、孔子の車のそばを歌いながら通り過ぎた。

「鳳や鳳凰や、どうしてかくも徳が衰えた今の世に迷い出たのだ。過ぎ去ったことはしかたがないが、これからのことは今からでも間に合う。おやめなさい、おやめなさい。今の政治に携わる者はみな危うい」

孔子は車を降りて話そうとしたが、小走りで去ったので話すことはできなかった。



八―四六(微子第一八―六)

長身の男と太った男が組になって畑を耕しているところへ、孔子一行が通りがかり、弟子の子路(しろに渡し場を尋ねさせた。長身の男は答えず孔子を指さして聞いた。

「あの手綱をとっている人は誰ですかか、魯の国の孔子かな」

「そうです」

「それなら道に詳しいはずだ、渡し場くらいわかるだろうに。」

取り合ってくれないので、太い男に聞くと、かえってまた聞かれた。

「お前さんは誰かね」

「子路という者です」

「では魯の孔子の弟子かな」

「そうです」

「滔々(とうとうと流れて止めようがないのは、天下のこともみなあの川と同じだ。誰と共にそれを変えようというのかな。お前さんもあれもだめこれもだめと人を捨てて歩いている先生につくくらいなら、いっそ世を捨てた者についた方がましではないかな」

と言って種を蒔く手を休めなかった。子路が戻ってきて報告すると、孔子は憮然(ぶぜんとして失望の色をあらわした。

「世を捨て人を捨てて、鳥獣と仲間になることは私にはできることではない。天下に道が行われているならば、私もそれを改めようとするのではない。道が失われているからこそ懸命に努力するのだ」



八―四七(微子第一八

―七)

子の子路(しろが孔子の一行からはぐれて、杖で籠をかついでいる老人に出会い、一行の行き先を尋ねた。

「私の先生を見かけませんでしたか」

「先生?、自ら骨折って耕すこともせず、穀物の種を畑に植えることさえ知らない人間をなぜ先生と呼ぶのかな」

老人はそう言い放つと、杖を突き立てて畑の草を取り始めた。子路は手を組んだままずっと立っていた。その夜、老人は子路を家に泊まらせて、鶏を殺し、きび飯を炊いてもてなし、二人の子にもひき合わせた。

翌日、一行に追いつい

た子路は、このことを孔子に報告した。孔子は隠者(いんじゃに違いないと言って、子路にもう一度会いに行かせたが、留守であったので二人の子に孔子の言葉を伝えた。

「仕官をしなければ義理はないと思っておられるでしょうが、少なくても長幼の序は捨てられなかった。そうすれば、何で君臣の義を廃することができますか。この乱世の時代、ただ我が一身を清く保つために世に隠れる、そういう隠者の生き方は君臣の真の道を乱すものである。君子の仕官は大義を行うためなのです。今の世はこの大義が行われがたいことなどはとっくに知っている。けれどもやむにやまれぬ情からできるだけのことをしているのだ」



八―四八(子罕第九―五)

(きょうの地で兵に囲まれ危難に遭ったとき、孔子は少しも恐れず言いました。

「文王(ぶんおうのいない今、その聖人の道は私の身に受け継がれている。もし天がこの文化を亡ぼすつもりなら私にまで伝えなかったはずだ。もし天がこの文化を亡ぼさないのであれば、いかに乱暴者の匡の輩といえども、この私を何とできよう!。」



八―四九(述而第七―二二)

の桓魋(かんたいという無頼者が孔子を殺害しようとしたとき、孔子は言いました。

「天はわが身に徳を付与せられたのだ、ごときがわが身をどうすることができようぞ」



八―五〇(学而第一―一〇)

子禽(しきんが兄弟子の子貢(しこうに聞いた。

「先生はどの国に行っても必ず政治の相談を受けられるが、これは先生の方から進んで求めたものでしょうか、それとも先方から頼まれたものでしょうか」

子貢は言いました。

「先生は他の人とは違い、穏和で、素直で、礼儀正しく、遠慮深くて、謙虚だから、行く先々の国君がこれを尊敬して先生の意見を求めるのであって、こちらから決して求められるものではないのだよ」



八―五一(子罕第九―一三)

弟子の子貢(しこうが、孔子が聖人の徳を懐きながら諸候に用いられないことを惜しんで言った。「ここに美しい玉があったなら、箱に入れてしまい込んでおきましょうか、それともよい値の買い手を探して売りましょうか。」「売ろうとも、もちろん売ろうとも! 私は自分の才能を売り惜しんでいるのではない。私の価値を認め、私を必要としている人間が来るのを待っているのだ」



八―五二(子路第一三―一〇)

孔子が言いました。

「もし私に国政をまかせる君主がいたら、一年だけでも成果をあげ、三年あれば立派に完成させてみせよう」



八―五三(憲問第一四―三四)

隠者 の微生畝(びせいほが孔子に言いました。

「孔子さん、何でそんなにあちこちうろつき回るのだ、まさか誰かに取り入ろうとしているのではないのか」

孔子は答えて言いました。

「人に取り入ろうなどとはとんでもない。この乱世に好んであちこち飛び回っているのではない。ガンコに世に背いてしまう生き方が厭だからなのだ」



八―五四(子罕第九―一四)

孔子はその理想がこの中国では行われないので、いっそ未開の地に行ってしまおうかと考えておられた。それについてある人が、

「そんな野蛮な所でどうするのですか」

と尋ねると、孔子は答えて言いました。

「君子が住めば感化されていくから、野蛮なままでいるはずがあるまい」



八―五五(公冶長第五―七)

孔子が天下に道徳が行われないのを嘆いて言いました。

「世の中が悪くなるばかりだ、いっそのこと筏に乗って海に出るとするか。その時に私について来るのは、たぶん子路くらいであろう」

子路(しろ)がそれを聞いて喜んでいると、孔子はまた言いました。

「子路、お前は勇ましいことを好きなのは私以上だが、筏の材料の調達はできそうにもないなあ」



八―五六(述而第七―一一)

孔子が言いました。

「富というものが人生にとって追求すべきことなら、たとえどんな卑しい仕事でも敢えてしよう。しかし富貴は天命によるというから、私は自分の好きな道に進もう」



八―五七(述而第七―一五)

孔子が言いました。

「粗末な食をして水を飲み、肘を曲げて枕にして寝ているような貧しい暮らしであっても、信じる道に生きる者には、その中に自然と楽しみがあるものだ。これに反して、不正な手段で金を儲けたり、高い地位を得ても、そんなものは私にとっては浮かべる雲のようなもので、心を動かすに足らない」



八―五八(公冶長第五―一三)

孔子に弟子の子貢(しこうが言いました。

「先生の容義や行いなど外に表れたものはこれを見たり聞いたりすることができる。しかし、人が天から授かった性(もちまえとか、天の道理などを説かれるには、相手の程度に応じて違うから、そのすべてを聞くことはなかなかむずかしい」



八―五九(述而第七―二〇)

孔子は、奇怪なこと、武勇にたのむこと、世の乱れや人の道を乱すこと、神については、普段口にされなかった。



八―六〇(先進第一一―一二)

弟子の子路(しろがいかに神に仕えるべきかを尋ねると、孔子は言いました。

「生きている人に仕えることがよく分からないのに、どうして神に仕えられようか」

「一体、死とは何でしょうか」

「まだ生きている人間の道さえわからないのに、どうして死のことがわかろうか」



八―六一(述而第七―三四)

孔子の病気が重くなったとき、子路(しろがお祈りしたいと申し出た。孔子は言いました。

「そういうことがあったのか」

「あります。古書に『汝のことを天地の神々に祈る』とあります」

「私は常々、神の御心にかなうように行っている。その意味では昔からすでに祈っている。病気や災難にあったからといってことさら祈ることはしない」



八―六二(子罕第九―一二)

孔子が危篤になったので、子路(しろは孔子の万一の時を飾ろうとして、門人たちを家臣に仕立てた。孔子が小康状態になったとき言いました。

「子路がまたおかしなことをやったな。家臣がいないのにあるようにみせかけて、私は誰をだますのだ、天をだますのか。私は偽の家臣に看取られて死ぬくらいなら、弟子のお前達に看取られて死んだほうがよい。立派な葬式はしてもらえなくても、まさかこの私がのたれ死にのようなざまでもあるまい」



八―六三(述而第七―五)

孔子が言いました。

「若く燃えていた頃はいつも理想の「周公(しゅうこう」を夢にあこがれたものだ。ああ、私も衰えたものだ。もはや情熱も衰えて夢も見なくなってしまった」



八―六四(為政第二―四)

孔子が言いました。「私は、 

十五で道を求めようと真の学問に志し、

三十で博く学び、身近から考え、実行を繰り返すことにより、だんだん正しく行動できるようになってきた。

四十でさらなる精進により心が高まり、真理と自分の人生とがどうにか一致するようになり、人生に迷いがなくなった。

五十にして、私たちを動かし、無限の知恵を持っている大いなるいのちと繋がっていることを悟った。また、この世を救うのが私の天命であることを自覚した。

六十にして、世の中をつらぬく微妙な道理を理解できた私の耳には、何を聞いても受け入れる ことができるようになった。

七十となってからは、自分の欲するままに行動しても、決して道を外れることはなくなった」



八―六五(述而第七―十六)

孔子が言いました。

「私がもう数年たち、五十になって『易(えき』を学べば大過がないであろう」



八―六六(憲問第十四―三七)

孔子が嘆息して、

「ああ、私を分かってくれる人はいない」

と言った。そばにいた弟子の子貢(しこうが、

「どうして先生を理解する人がいない、などとおっしゃるのですか」

とお尋ねした。孔子は言いました。

「こと志と違い世に受け入れられないけれども、これが天のお心なら、私は天を怨みもしないし、人もめもしない。ただ自分の修養に努め、身近なことから学んで高遠なことに達した。その私を分かってくれるのはただ天だけであろう」



八―六七(述而第七―二九)

孔子が言いました。

「仁は容易に手が届かないものだろうか。いやそうではない、仁は本来の自己にすでに備わっているものであるから、自分が心から欲すればその瞬間に仁はその人のものとなるのだ」



八―六八(子罕第九―九)

孔子が言いました。

「昔、舜や文王などの聖人が世にあった時代には、鳳(おおとりがあらわれ、黄河からは河図(かとが出たという。しかし今やそのめでたい兆しもない、私ももうこれでおしまいだろうか」



八―六九(子罕第九―一七)

孔子が川のほとりで言いました。

「移りゆくもの、時の流れとは、この川のようなものであろうか。昼となく夜となく休まず流れ続けている」

第8巻 後半終わり




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