全編の再編集・現代語訳
第八巻 そ の 人
八―一(子罕第九―六)
呉 の大臣が孔子の弟子、子貢(しこう)に質問した。
「孔子どのは聖人であろうが、それにしてもどうしてそんなに多芸なのでしょうか。」
子貢が言いました。
「もちろん天から恵まれた偉大な聖人ですが、その上、同時にまた多芸なのです。
多くのことができるから聖人なのではないのです。」
孔子がこのことを聞いて言いました。
「大臣は私を知らないのであろう。私は若いころ貧乏であり、また世に用いられなかったため、つまらないことがいろいろできるのだ。君子は本来、多芸多才でもなければ、物知りでもないものだ」
八―二(子罕第九―七)
孔子の弟子、琴牢(きんろう)が言いました。
「先生は『私は若い頃、世に用いられなかったので、自然に多芸になった』と謙遜して申されました」
八―三(子罕第九―二)
達巷(たっこう) の里の者が言った。
「偉大なものだ、孔子は。だが博く学ばれていて何が本職ということもない」
孔子はその話を聞いて門人達に言いました。
「さあ、私は何を本職ということにしようか、にしようか、弓にしようか、まあ卑しい御者にでもしておこう」
八―四(子張第一九―二二)
衛のの家老、公孫朝(こうそんちょう)がに質問した。
「孔子どのは誰に学ばれたのですか」
子貢は答えました。
「周の文王や武王の聖人の道は、未だ廃れないで人々に受け継がれています。優れた人はその大きなところを覚えていますし、優れない人でもその小さなことを覚えています。文武両王の道はどこにでもあるのです。先生は誰にでも学ばれました。そしてまた別に決まった師などありませんでした」
八―五(述而第七―一九)
孔子が言いました。
「私は生まれながらにして知る者ではない。ただ古の賢者の道と伝統を好んで、怠りなくそれを学び続けてこそものごとをわきまえることができたのだ」
八―六(公冶長第五―二八)
孔子が言いました。
「十戸ほどの小さな村の中にも、必ず私に劣らない誠実で信頼できる者はいるだろう。しかし、私ほどの学問を好む者はいないだろう」
八―七(述而第七―一)
孔子が言いました。
「私は詩経の整理、周易の注釈、春秋の編纂などをやったが、これは昔から伝わったものを整理しただけで、自ら新しく創作したものではない。聖人の教えを受け継いでこれを伝えることはできても、新しく創作することなど到底及ぶところでないが、古のことを信じてこれを好むことだけは、時代の家老で賢人のさんにあやかりたいものである」
八―八(述而第七―二七)
孔子が言いました。
「世の中にはよく分かっていないのに創作する者もいようが、私はそうではない。私は多くを聞いてその良いものを選び、多くを見てよく覚えておく、これは生まれながらの知者ではないがそれに次ぐものである」
八―九(述而第七―七)
孔子が言いました。
「たとえ少ない謝礼でも、礼をもって入門した者に教えなかったということはない。誰にでも教え導きたいのだが、出かけて行ってまで教えるのは道でない」
八―一〇(述而第七―二)
孔子が言いました。
「会得したことをすぐに口に出さずそれを心にきざみ、学んで飽きることなく、人に教えることに一切をかけ疲れることを知らない。これが私の日常だ」
八―一一(子罕第九―一六)
孔子が言いました。
「外ではよく大臣たちに仕え、家では父兄に尽くす。また葬儀ではできるだけ手伝い、また酒は飲んでも乱れることことはない。このくらいのことなら私にとって何でもないことだ」
八―一二(述而第七―三二)
孔子が言いました。
「勤勉努力なら私も人並みであるが、君子としての実践ではまだ達していない」
八―一三(述而第七―三)
孔子が言いました。
「徳を修め人格を磨く。学問を究めて物の道理を知る。正義に従って行動しているか。過ちを改めているか。これが人格向上の四つの要点であり、私もいつも心配しているところである」
八―一四(述而第七―三三)
孔子が言いました。
「世の人は私を聖人とか仁者などというがそれには及びもつかないことである。ただ私は聖人や仁者の道を行って飽きることがなく、これをもって人に教えて倦まないというくらいなら、言ってもらってもいいだろう」
弟子の公西華(こうせいか)が申し上げた。
「それこそ私ども弟子のまねのできるものではありません」
八―一五(憲問第一四―三〇)
孔子が言いました。
「君子の実践すべき道は三つであるが、私にはまだ到達できていない。『仁者は省みてやましさがないので憂えず、知者は道理をわきまえるので惑わず、勇者は信じることに突進するので恐れず』 という境地がそれである」
弟子の子貢(しこう)が申し上げた。
「それは、先生が自分でそう言われるだけです」
八―一六(郷党第一〇―一)
孔子は、郷里では恭順なありさまで、ものも言えない人のようであったが、主君の祖先の宗廟や朝廷では明快に話された。ただその場合でも、慎みの態度だけは忘れなかった」
□八―一七(郷党第一〇―二)
朝廷に出仕して、下役と話すときはいかにも和やかで、上役と話すときは慎み深く、主君がお出ましのときは恭しくまたのびやかでもあられた。
八―一八(子罕第九―四)
孔子は四つのことを絶たれた。その第一は前もってかんぐりしないこと。第二は無理を通さぬこと、第三は固執しないこと、第四は我をはらないこと。
八―一九(述而第七―三七)
孔子は温和であるが、しかし厳しく。威厳があるが、しかし威圧感を与えず。うやうやしく慎み深いが、堅苦しさがなかった。
八―二〇(公冶長第五―二五)
孔子が言いました。
「言葉が巧みで顔つきよく余りにも馬鹿丁寧であることは、昔の賢人の左丘明(さきゅうめい)はこれを恥とした。私もやはり恥とする。また怨みを隠してその人と友だちになることをは左丘明(さきゅうめい)恥とした。私もまたこれを恥とする」
八―二一(述而第七―一八)
楚の葉公(ようこう)が孔子のことを子路(しろ)に質問した。しかし子路(しろ)は手短に答えようがなく黙っていた。それを聞いて孔子は言いました。
「何で言ってやらなかったのだ。その人が学問に発憤しては食事も忘れ、道を楽しんでは心配事も忘れ、やがて老いがやってくることにも気づかずにいるというように」
八―二二(季氏第一六―一三)
弟子の陳亢(ちんこう)が、孔子の子息の伯魚(はくぎょ)に質問した。
「あなたは何か特別な教えを聞かれたことがありますか」
伯魚 は答えて言いました。
「いいえ、いつか父上が一人で立っておられたとき、私が小走りで前の庭を通ると、『詩経を学んだか』と聞かれました。『まだです』とお答えすると、『詩経を学ばなければ世に出てものがいえないぞ』と言われました。それで私は詩経を勉強しました。
陳亢(ちんこう)は引き下がると喜んで言いました。
「一つのことを尋ねて三つのことが分かったぞ、詩経のこと、礼のこと、また君子は自分の子を特別扱いはしないということを教えられたぞ」
八―二三(述而第七―三〇)
陳 の司法長官が孔子に質問しました。
「主君の昭公どのは礼法をご存じですか」
孔子は答えて言いました。
「はい、ご存じです」
孔子が退いたとき、長官は弟子の巫馬期(ふまき)を招いて言いました。
「君子というものは仲間びいきしないと聞いていたが、君子でも仲間びいきするのですか。礼法には同姓から娶らぬというが、昭公はそれを破って同姓から娶られた。昭公が礼法を知っているといったなら、およそ礼法を知らぬ者はいるまい」
巫馬期(ふまき)がこれを告げると、孔子は言いました。
「私はたいへんな幸せ者だ。過ちがあれば必ず人がそれを教えてくれる」
君主のことも悪く言えず、同姓の結婚を礼法にかなったともいえないので、その過ちを己の罪にし、弁解がましいことを言わなかった。
八―二四(述而第七―二八)
瓦郷村(ごきょうむら) の人間は評判が悪かったが、孔子がそこの子どもに会ってやったので、門人たちがいぶかった。そこで孔子は言いました。
「私は向上心をもってやってきた者は手助けをし、退歩する者には手助けはしないのだ。お前たちの度の過ぎた扱いはよくない。人が清らかな気持ちでやって来たら、その清らかさを買うのだ。その過去はどうでもよいのだ」
八―二五(陽貨第一七―二〇)
哀公(あいこう)の家臣の孺悲(じゅひ)が、君命で孔子に面会しようとしたとき、君命をたのみ紹介なくして会おうとしたので、孔子はその無礼さを怒り病気だと断らせた。しかし、取り次ぎの者が出ていくと、礼儀を守らなかったための仮病だったと知らせ、反省させるため、すぐに琴をとって弾きながら訪問者に聞こえるように歌った。
八―二六(雍也第六―二八)
孔子が霊公の夫人で、淫乱で名高い南子(なんし)に会ったので、弟子の子路(しろ)が怒った。孔子は誓って言いました。
「もし私の行動が正しくなければ、天が許すまい、天が罰するだろう」
八―二七(憲問第一四―四五)
孔子の旧友、原攘(げんじょう)がうずくまって孔子の来るのを待っていた。孔子は、
「お前は子どものときから素直でなく、大人になってからも人を人とも思わぬ。そしてただ歳ばっかりとって生き延びている。こんな奴は穀つぶしというのだ」 と言って杖で向こうずねを軽く叩いたのである。
八―二八(陽貨第一七―二五)
孔子が言いました。
「つまらない女性やつまらない人間は扱いにくいものだ。近づけると無遠慮になり、遠ざけると怨む」
八―二九(述而第七―四)
孔子が家でくつろいでいるときはのびのびとしていた。その上いかにも楽しげであった。
八―三〇(郷党第一〇―二〇)
孔子は寝ているときは屍のようにぶざまにはならず、かといって日常のふるまいに堅苦しい様子はなかった。
八―三一(郷党第一〇―九)
孔子は身分不相応で座るべきでない席には座られなかった。
八―三二(述而第七―三一)
孔子は人と一緒に歌を歌い、よい歌に会うと必ず反復して歌ってもらい、そのよいところをとって合唱せられた。
八―三三(郷党第一〇―一三)
孔子が朝廷から家に帰ると火事で厩(うまや)が焼けていた。孔子がまず聞いたことは、 「けが人はなかったか」
と言ったことであって、馬のことは問わなかった。
八―三四(述而第七―二六)
孔子は釣りをしたが、はえ縄で一度に多くの魚を捕るようなことはしなかった。
弓で鳥を捕ったが、ねぐらの安らかな鳥は捕らなかった。
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