2009年2月13日金曜日

■まごころ論語 第七巻ー前半

全編の再編集・現代語訳

第七巻 時の事 前篇


七―一(泰伯【たいはく】第八―一九)

孔子が言いました。

「堯(ぎょうは偉大な君主であった。この上もなく高い、天の徳にあやかったのは堯(ぎょう う)だけである。人民はその徳の広さを言い表しようがなかった。彼の業績は偉大で、輝かしい文化と制度をつくり上げた」



七―二(堯曰第二十―一の一部)

堯(ぎょう)が天子の地位を舜(しゅん)に譲らんとしたとき言いました。

「ああ汝、舜よ。天の巡る運命は汝が身にあり、汝帝位につくべき時ぞ! しっかりと、中道を守る政治を執れ。全国の人々が困窮することがないよう、天の恵みが永遠に続かんことを!」

もまた、帝位を禹(に譲るとき、その言葉を告げた。



七―三 (泰伯第八―一八)

孔子が言いました。

「舜(しゅん禹()が天下を治めることは壮大なものであった。それでいて全てを賢明な家臣にまかせ、自分ではまるで何もしていないかのようであった」



七―四(衛霊公第一五―五)

孔子が言いました。

「何もしないでいて世を治められたのは、まあ舜(しゅんであろう。彼は一体何をしたかと言えば、自らを慎み、帝王として国政一途に心を傾け、正しく帝位についていただけである



七―五 (泰伯第八―二一)

孔子が言いました。

禹(は非のうちどころがない。 食事を切りつめても、祖先へのお供え物は立派にし、まごころを尽くし。衣服を質素にしながら、祭礼の衣冠は十分に立派にし。宮殿の住まいは粗末にしても、治水に全力を尽くした。禹()には少しの非のうちどころもない」



七―六 (子張第一九―二〇)

孔子が言いました。

「殷の紂王(ちゅうおうは、善くないと言っても伝説ほどにはひどくなかったようだ。だから、上に立つ者が悪い評判を嫌うのは、一端悪評が立つと、ゴミの集まる下流のように、世の中のすべての汚名がみな自分に集まるからである」



七―七 (公冶長第五―二三)

孔子が言いました。

「伯夷(はくいと叔斉(しゅくせいの兄弟は、悪事をにくんだ厳しい人であった。しかし、過去のことはいつまでも根にもたなかった。だから人から怨まれることが少なかった」



七―八 (泰伯第八―一)

孔子が言いました。

「周の泰伯(たいはくこそ最高の人格者だと言えよう。三度も天下を譲った目立たぬ徳行は、人民はそのことを知らず称えることもなかった」



七―九 (憲問第一四―一六)

孔子が言いました。

「春秋の覇者のうち、晋(しんの文公(ぶんこうは謀略にたけていたが、正攻法を守らなかった。一方の斉の桓公(かんこうは原則を堅守し、謀略を用いなかった」



七―一〇 (憲問第一四―一七)

弟子の子路(しろが言いました。

「斉(せいの国の桓公(かんこうが、かって相続争いで異母兄の糾(きゅうを殺したとき、その側近のうち、召忽(しょうこつは殉死(じゅんししたが、管仲(かんちゅうは生き残り、かえって仇の桓公(かんこうに仕えました。これは仁では無いでしょうね」

孔子は言いました。

「桓公(かんこうが九回も武力に頼らずに諸侯を会合させたのは、管仲(かんちゅうの功績であった。殉死しなかったのは小さいことで、誰がその仁に及ぼうか、誰がその仁に及ぶものか!」



七―一一(憲問第一四―一八)

弟子の子貢(しこうが言いました。

「管仲(かんちゅうは仁者ではないでしょう。桓公(かんこうが異母兄の糾(きゅうを殺したとき、殉死しなかったばかりか、かえって桓公の宰相となって仕えました」

孔子が言いました。

「管仲桓公を助け諸侯の覇者に押し上げ、天下を結集して団結させた。人々は今でもその恩恵を受けている。もし管仲がいなかったら、我々は異民族に支配されていたことだろう。のような人物がどうして取るに足らない人のように、つまらない義理を立て、自らくたびれて、誰にも知れず埋もれてしまってよいものか」



七―一二(憲問第一四―一〇)

ある人が鄭(ていの子産(しさんの人物を尋ねると、孔子は答えた。

「人民に恵み深かった人です」

「あれか、ああ、あれか」

と気のない返事をした。斉(せい)の管仲(かんちゅう)を尋ねると、答えて言いました。

の子西(しせいを尋ねると。

「大人物です。上級家臣の伯子(はくを処罰して、駢(べんという三百戸の村を没収しましたが、伯子(はくしは粗末な食事をするようになっても、死ぬまで管仲(かんちゅう)の怨みごとは言いようがなかったほどである」



七―一三(公冶長第五―一六)

孔子が鄭(ていの宰相だった子産(しさんを評して言いました。

「彼は上に立つ者の道を四つ身につけていた。自らの行動には慎みを持ち、主君に仕えてはうやうやしく、人民を養っては恵み深く、人々を使うときは公正に行った」



七―一四(憲問第一四―九)

孔子が言いました。

「鄭(ていの国の外交文書はたいへん優れいた。まず家老の卑諶(ひじんが起草し、次に家老の世叔(せいしゅくがそれを検討し、外交官の子羽(しうがそれを添削し、側近の子産(さんが色づけして仕上げ太字たからである」



七―一五(衛霊公第一五―一四)

孔子が言いました。

「魯の宰相であった藏分仲(ぞうぶんちゅうは給料泥棒と言うべきではなかろうか。柳下恵(りゅうかけいという優れた人物を知りながら、これを登用しなかったのは、職責を果たさない給料泥棒であろう」



七―一六(微子第一八―二)

柳下恵(りゅうかけいが魯の裁判官となって三度も免職された。人から、

「あなたは、それでもまだ国外に立ち去らないのですか」と言われたが、答えて言った。

「今は、天下のいずこにも道が行われている国はない。だから、真っ直ぐに道を守り抜いて仕えたならば、どこに行っても三度は免職されるでしょう。もし道を曲げて仕えるくらいなら、何も父母の国から去る必要はありませんしね」



七―一七(微子第一八―八)

名の知られた隠者には、伯夷(はくい、叔斉(しゅくせい、虞仲ぐちゅう、夷逸(いいつ、朱張(しゅちょう柳下恵(りゅうかけい、少連(しょうれんがいます。孔子が言いました。

「志を曲げず、また辱めも受けなかったのは伯夷と叔斉であろう。柳下恵と少連は志を低くして辱めも受けたが、発言は道理にかない、行動も思慮にかなっていた。しかし、虞仲夷逸は、隠れ住んで言いたいことを言っていたが、潔白であったと、いうのは私には異議がある。私はそれらの隠者たちは良いとも言えないし、悪いとも言えない」



七―一八(公冶長第五―一七)

孔子が言いました。

「斉の宰相晏平仲(あんぺいちゅうは善く人と交わり、久しくつき合うほど、人は彼を尊敬するようになった」



七―一九(公冶長第五―二〇)

の宰相季文子(きぶんしは、何事も三度考えてはじめて実行したということを聞いて、孔子は言いました。

「二度真剣に考えれば十分であろう」



七―二〇(雍也第六―二四)

孔子が言いました。

「斉の国は人間がひどく功利的になってきているが、人心がちょっと変われば魯のようになるであろう。魯の国は賢人もいなく政治も衰えてきているが、国情がちょっと変われば、昔のような理想の国家にまで立ち返るであろう」



七―二一(為政第二―二一)

ある人が孔子に質問しました。

「あなたはなぜ政治に参加しないのですか。」

孔子は言いました。

「書経に『まことに孝なるかな、兄弟とむつみあい、政に及ぼすとは』とあります。これもまた政治のうちです。あえて国の政治に参加しなくてもいいのです」



七―二二(陽貨第一七―一)

成り上がりの実力者陽貨(ようかは、孔子に会おうとしたが応じられなかったので、孔子の留守中に高級な「蒸し豚」を進物に贈り、慣習の答礼にどうしても出て来ざるを

得ないようにした。孔子も計略を分かって、陽貨の留守を見計らって答礼の訪問に行ったが、帰り道で出会ってしまった。陽貨が言いました。

「さあ、よくお聞きなさい。身に才識を備えながら国の乱れを治めようとしないのは、国を迷わすことになるのではないか、これで仁と言えますか」

「言えません」

「政治に携わることを欲しながら、たびたび好機を失するのは智と言えますか」

「言えません」

「日月の経つのは早いですよ。歳月は待ってくれませんよ。早く私に仕えなさい」

孔子は答えて言いました。

「分かりました。私もそのうち仕官しましょう」



七―二三(陽貨第一七―五)

公山不擾(こうざんふじょうが反乱を起こし、費(の城を占拠して孔子を招聘した。孔子は行こうと思ったが、古参弟子の子路(しろが怒って言った。

「おやめください。謀反人に味方をするとは何ごとですか」

孔子は弁解して言いました。

「ああして私を招くからにはいい加減ではあるまい。もし本当に私を用いる者がいたら、私は理想の国を興して見せるのだが」



七―二四(憲問第一四―三八)

孔子の政策を実現するために子路(しろ)は季孫氏(きそんしに仕えていた。         弟子とも言われる公伯寮(こうはくりょうは、季孫氏に子路を讒言(ざんげんした。       上級家臣がこのことを孔子に知らせて言いました。

「あの方はすっかり公伯寮に惑わされております。私の力でこの男を処刑して、広場でさらしものにすることもできますよ」

孔子は言いました。

「道徳が行われるようになるのも天命です。道徳がれるようになるのもまた天命です。公伯寮ごときに天命をどうすることができますか」



七―二五(八佾第三―二六)

孔子が言いました。

「人の上に立っても寛容でない者、礼法を行っても慎みがない者、葬儀に参列しても哀悼の気持ちを持たない者、こんな者に何の取り柄があろう」



七―二六(子路第一三―九)

孔子が衛の国に行ったとき、御者をしていた冉有(ぜんゆうに言いました。

「何と人口の多いことだろう」

冉有(ぜんゆう)が、

「人口が多くなったら、この上どうしたらいいのですか」

と尋ねると、孔子は、

「豊かにさせることだ」と言いました。

「人々が豊かになったら、その上はどうしたらいいでしょうか」

と尋ねると、孔子は答えて言いました。

「あとは教育することだ」



七―二七(八佾第三―一三)

の実力者、王孫賈(おうそんかが孔子を手に入れようとてわざと尋ねた。

「『奥の大明神を拝むよりは、裏口のかまどの神様を拝んだ方が早い』という諺はどういう意味でしょうか」

「主君より自分の機嫌をとれというのは間違っている。筋の通らないことは結局天罰を受けるむだごとだ」とはねつけた。



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