全編の再編集・現代語訳
第七巻 時の事 前篇
七―一(泰伯【たいはく】第八―一九)
孔子が言いました。
「堯(ぎょう)は偉大な君主であった。この上もなく高い、天の徳にあやかったのは堯(ぎょう う)だけである。人民はその徳の広さを言い表しようがなかった。彼の業績は偉大で、輝かしい文化と制度をつくり上げた」
七―二(堯曰第二十―一の一部)
堯(ぎょう)が天子の地位を舜(しゅん)に譲らんとしたとき言いました。
「ああ汝、舜よ。天の巡る運命は汝が身にあり、汝帝位につくべき時ぞ! しっかりと、中道を守る政治を執れ。全国の人々が困窮することがないよう、天の恵みが永遠に続かんことを!」
舜もまた、帝位を禹(う)に譲るとき、その言葉を告げた。
七―三 (泰伯第八―一八)
孔子が言いました。
「舜(しゅん)や禹(う)が天下を治めることは壮大なものであった。それでいて全てを賢明な家臣にまかせ、自分ではまるで何もしていないかのようであった」
七―四(衛霊公第一五―五)
孔子が言いました。
「何もしないでいて世を治められたのは、まあ舜(しゅん)であろう。彼は一体何をしたかと言えば、自らを慎み、帝王として国政一途に心を傾け、正しく帝位についていただけである」
七―五 (泰伯第八―二一)
孔子が言いました。
「禹(う)は非のうちどころがない。 食事を切りつめても、祖先へのお供え物は立派にし、まごころを尽くし。衣服を質素にしながら、祭礼の衣冠は十分に立派にし。宮殿の住まいは粗末にしても、治水に全力を尽くした。禹(う)には少しの非のうちどころもない」
七―六 (子張第一九―二〇)
孔子が言いました。
「殷の紂王(ちゅうおう)は、善くないと言っても伝説ほどにはひどくなかったようだ。だから、上に立つ者が悪い評判を嫌うのは、一端悪評が立つと、ゴミの集まる下流のように、世の中のすべての汚名がみな自分に集まるからである」
七―七 (公冶長第五―二三)
孔子が言いました。
「伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)の兄弟は、悪事をにくんだ厳しい人であった。しかし、過去のことはいつまでも根にもたなかった。だから人から怨まれることが少なかった」
七―八 (泰伯第八―一)
孔子が言いました。
「周の泰伯(たいはく)こそ最高の人格者だと言えよう。三度も天下を譲った目立たぬ徳行は、人民はそのことを知らず称えることもなかった」
七―九 (憲問第一四―一六)
孔子が言いました。
「春秋の覇者のうち、晋(しん)の文公(ぶんこう)は謀略にたけていたが、正攻法を守らなかった。一方の斉の桓公(かんこう)は原則を堅守し、謀略を用いなかった」
七―一〇 (憲問第一四―一七)
弟子の子路(しろ)が言いました。
「斉(せい)の国の桓公(かんこう)が、かって相続争いで異母兄の糾(きゅう)を殺したとき、その側近のうち、召忽(しょうこつ)は殉死(じゅんし)したが、管仲(かんちゅう)は生き残り、かえって仇の桓公(かんこう)に仕えました。これは仁では無いでしょうね」
孔子は言いました。
「桓公(かんこう)が九回も武力に頼らずに諸侯を会合させたのは、管仲(かんちゅう)の功績であった。殉死しなかったのは小さいことで、誰がその仁に及ぼうか、誰がその仁に及ぶものか!」
七―一一(憲問第一四―一八)
弟子の子貢(しこう)が言いました。
「管仲(かんちゅう)は仁者ではないでしょう。桓公(かんこう)が異母兄の糾(きゅう)を殺したとき、殉死しなかったばかりか、かえって桓公の宰相となって仕えました」
孔子が言いました。
「管仲は桓公を助け諸侯の覇者に押し上げ、天下を結集して団結させた。人々は今でもその恩恵を受けている。もし管仲がいなかったら、我々は異民族に支配されていたことだろう。のような人物がどうして取るに足らない人のように、つまらない義理を立て、自らくたびれて、誰にも知れず埋もれてしまってよいものか」
七―一二(憲問第一四―一〇)
ある人が鄭(てい)の子産(しさん)の人物を尋ねると、孔子は答えた。
「人民に恵み深かった人です」
「あれか、ああ、あれか」
と気のない返事をした。斉(せい)の管仲(かんちゅう)を尋ねると、答えて言いました。
楚 の子西(しせい)を尋ねると。
「大人物です。上級家臣の伯子(はくし)を処罰して、駢(べん)という三百戸の村を没収しましたが、伯子(はくし)は粗末な食事をするようになっても、死ぬまで管仲(かんちゅう)の怨みごとは言いようがなかったほどである」
七―一三(公冶長第五―一六)
孔子が鄭(てい)の宰相だった子産(しさん)を評して言いました。
「彼は上に立つ者の道を四つ身につけていた。自らの行動には慎みを持ち、主君に仕えてはうやうやしく、人民を養っては恵み深く、人々を使うときは公正に行った」
七―一四(憲問第一四―九)
孔子が言いました。
「鄭(てい)の国の外交文書はたいへん優れいた。まず家老の卑諶(ひじん)が起草し、次に家老の世叔(せいしゅく)がそれを検討し、外交官の子羽(しう)がそれを添削し、側近の子産(しさん)が色づけして仕上げたからである」
七―一五(衛霊公第一五―一四)
孔子が言いました。
「魯の宰相であった藏分仲(ぞうぶんちゅう)は給料泥棒と言うべきではなかろうか。柳下恵(りゅうかけい)という優れた人物を知りながら、これを登用しなかったのは、職責を果たさない給料泥棒であろう」
七―一六(微子第一八―二)
柳下恵(りゅうかけい)が魯の裁判官となって三度も免職された。人から、
「あなたは、それでもまだ国外に立ち去らないのですか」と言われたが、答えて言った。
「今は、天下のいずこにも道が行われている国はない。だから、真っ直ぐに道を守り抜いて仕えたならば、どこに行っても三度は免職されるでしょう。もし道を曲げて仕えるくらいなら、何も父母の国から去る必要はありませんしね」
七―一七(微子第一八―八)
名の知られた隠者には、伯夷(はくい)、叔斉(しゅくせい)、虞仲(ぐちゅう)、夷逸(いいつ)、朱張(しゅちょう)、柳下恵(りゅうかけい)、少連(しょうれん)がいます。孔子が言いました。
「志を曲げず、また辱めも受けなかったのは伯夷と叔斉であろう。柳下恵と少連は志を低くして辱めも受けたが、発言は道理にかない、行動も思慮にかなっていた。しかし、虞仲や夷逸は、隠れ住んで言いたいことを言っていたが、潔白であったと、いうのは私には異議がある。私はそれらの隠者たちは良いとも言えないし、悪いとも言えない」
七―一八(公冶長第五―一七)
孔子が言いました。
「斉の宰相晏平仲(あんぺいちゅう)は善く人と交わり、久しくつき合うほど、人は彼を尊敬するようになった」
七―一九(公冶長第五―二〇)
魯の宰相季文子(きぶんし)は、何事も三度考えてはじめて実行したということを聞いて、孔子は言いました。
「二度真剣に考えれば十分であろう」
七―二〇(雍也第六―二四)
孔子が言いました。
「斉の国は人間がひどく功利的になってきているが、人心がちょっと変われば魯のようになるであろう。魯の国は賢人もいなく政治も衰えてきているが、国情がちょっと変われば、昔のような理想の国家にまで立ち返るであろう」
七―二一(為政第二―二一)
ある人が孔子に質問しました。
「あなたはなぜ政治に参加しないのですか。」
孔子は言いました。
「書経に『まことに孝なるかな、兄弟とむつみあい、政に及ぼすとは』とあります。これもまた政治のうちです。あえて国の政治に参加しなくてもいいのです」
七―二二(陽貨第一七―一)
成り上がりの実力者陽貨(ようか)は、孔子に会おうとしたが応じられなかったので、孔子の留守中に高級な「蒸し豚」を進物に贈り、慣習の答礼にどうしても出て来ざるを
得ないようにした。孔子も計略を分かって、陽貨の留守を見計らって答礼の訪問に行ったが、帰り道で出会ってしまった。陽貨が言いました。
「さあ、よくお聞きなさい。身に才識を備えながら国の乱れを治めようとしないのは、国を迷わすことになるのではないか、これで仁と言えますか」
「言えません」
「政治に携わることを欲しながら、たびたび好機を失するのは智と言えますか」
「言えません」
「日月の経つのは早いですよ。歳月は待ってくれませんよ。早く私に仕えなさい」
孔子は答えて言いました。
「分かりました。私もそのうち仕官しましょう」
七―二三(陽貨第一七―五)
公山不擾(こうざんふじょう) が反乱を起こし、費(ひ)の城を占拠して孔子を招聘した。孔子は行こうと思ったが、古参弟子の子路(しろ)が怒って言った。
「おやめください。謀反人に味方をするとは何ごとですか」
孔子は弁解して言いました。
「ああして私を招くからにはいい加減ではあるまい。もし本当に私を用いる者がいたら、私は理想の国を興して見せるのだが」
七―二四(憲問第一四―三八)
孔子の政策を実現するために子路(しろ)は季孫氏(きそんし)に仕えていた。 弟子とも言われる公伯寮(こうはくりょう)は、季孫氏に子路を讒言(ざんげん)した。 上級家臣がこのことを孔子に知らせて言いました。
「あの方はすっかり公伯寮に惑わされております。私の力でこの男を処刑して、広場でさらしものにすることもできますよ」
孔子は言いました。
「道徳が行われるようになるのも天命です。道徳がれるようになるのもまた天命です。公伯寮ごときに天命をどうすることができますか」
七―二五(八佾第三―二六)
孔子が言いました。
「人の上に立っても寛容でない者、礼法を行っても慎みがない者、葬儀に参列しても哀悼の気持ちを持たない者、こんな者に何の取り柄があろう」
七―二六(子路第一三―九)
孔子が衛の国に行ったとき、御者をしていた冉有(ぜんゆう)に言いました。
「何と人口の多いことだろう」
冉有(ぜんゆう)が、
「人口が多くなったら、この上どうしたらいいのですか」
と尋ねると、孔子は、
「豊かにさせることだ」と言いました。
「人々が豊かになったら、その上はどうしたらいいでしょうか」
と尋ねると、孔子は答えて言いました。
「あとは教育することだ」
七―二七(八佾第三―一三)
衛の実力者、王孫賈(おうそんか)が孔子を手に入れようとてわざと尋ねた。
「『奥の大明神を拝むよりは、裏口のかまどの神様を拝んだ方が早い』という諺はどういう意味でしょうか」
「主君より自分の機嫌をとれというのは間違っている。筋の通らないことは結局天罰を受けるむだごとだ」とはねつけた。
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