まごころ論語 第三巻
□三―一(泰伯第八―八)
孔子が人間の教養について言いました。
「『』を学べば心が奮い起こされる、次に礼によって行動の規範をたて、音楽によって心の調和を得るのだ。」
□三―二 (為政第二―二)
孔子が言いました。
「『』の三百編は、一言で言いつくせば、『心に邪心がない』、つまり真っ直ぐまごころから出たということである。」
□三―三 (陽貨第一七―九)
孔子が若い弟子たちに言いました。
「どうして『』を学ばないのだ。『詩経』は心を奮い立たせるし、物事を深く観察させる。人との交わり方も、怨みごとをうまく処理することもみんな教えてくれる。身近なところでは父母に尽くし、将来は主君にお仕えすることも、また多くの言葉や物の名を知ることもできるのだ。」
□三―四 (陽貨第一七―一〇)
孔子は子息のに言いました。
「お前は『詩経』のとの部を覚えたか。天下を治めるにはまず家を治めなければならない。家を治めるには夫人のが根本である。だから、徳化を歌うこれらの詩を覚えなければ、に顔をつけて立っているようなもので、真実は見えないし、一歩も前進できないぞ。」
□三―五 (子路第一三―五)
孔子が言いました。
「『詩経』三百編を暗唱していても、政務を与えられて職務を達成できず、他国に代表となって出向いても一人で適宜に応対できないなら、いかに多くを学んだとて何にもならないではないか。」
□三―六 (八?第三―八)
弟子のが言いました。
「『詩経』の『ほほ笑みのいとうるわしく つぶらなる瞳きらめき の真白なるをとせん』という詩はどういう意味ですか。」
「絵はまず下地をよくすることで、をすのはその後のことだ。」
と言った。
がまた聞いた。
「では、忠と信の心を先に修めてから、礼法で仕げるということですか。」
孔子は喜んで言いました。
「、よくぞ私の意図するところを引き出してくれた。これでこそ、お前とは『詩経』を語ることができる。」
□三―七(述而第七―一三)
孔子はで『』という音楽をいて感動し、三月の間は肉の味も分からぬほど集中して研究し、そして言いました。
「音楽というものがここまで行きつけるとは思いもよらなかった。」
□三―八(八?第三―二五)
孔子がの時代の『』という音楽を評して言いました。
「調和がとれ美を尽くしている、慈悲の心も十分なものである。」
そして、周のの時代の『武』という音楽を評して言いました。
「調和の美は十分であるが、まだ慈悲の心は十分とは申しがたい。」
□三―九(八?第三―二〇)
孔子が言いました。
「『』の冒頭にある『みさご』という愛の歌は、楽しんでもおぼれず、悲しげであっても心を痛めるほどではない調和のとれているものだ。」
□三―一〇(八?第三―七)
孔子が言いました。
寧に会釈をして台上に上り、会釈をして台上から下りる。終わってからはお互いを讃え、勝者が敗者に酒を奨める。これが君子の争いというものだ。」
□三―一一(八?第三―一六)
孔子が言いました。
「弓の礼では、の皮を何枚くかが大切なのではない。腕力には生れながらの差別があるからで、そいううのが古代のやりかたである。」
□三―一二(泰伯第八―二)
孔子が言いました。
「恭・慎・勇・直はいずれも大事な徳目であるが、これを節するに礼法をもってし
なければ弊害を生ずる。則ち、恭しくあっても礼がなければ疲れる。慎みであっても礼がなければ臆病になり。勇であっても礼がなければ乱暴になる。直であっても礼がなければ窮屈になる。
上に立つ者が親しい者に手厚くすれば、下の者も仁になろうと奮起する。古い友人を忘れなければ、人民も薄情でなくなる。上に立つ者の行いは直ちに下に影響を及ぼすものである。」
□三―一三(雍也第六―二七)
孔子が言いました。
「君子はまず、博く書物を学び、正しい生き方で我が身を律すれば道にはずれることはないだろう。」
□三―一四(八?第三―一四)
孔子が言いました。
「の文化はと二代の文化を総合したものだから、その文化も受け継いで、いよいよ盛況を極めたのだ。したがって我々もまた周の文化に従わなければならない。」
□三―一五(衛霊公第一五―一一)
弟子のが国家の制度について質問した。孔子は言いました。
「農業に合うの暦に従い、の堅固な車を使用し、の完備した礼服を着用する。
音楽はの時代の『』を用い、の音楽を捨てる。それから口達者な小人は朝廷から遠ざけることだ。の音楽は淫らである、淫らな音楽は人心を腐敗させ、口先だけの人は国を危うくするものだ。」
□三―一六(八?第三―五)
孔子は言いました。
「異民族のごとき文化の低い国でも、君主があり、社会には道徳的秩序があるのに、文化の高きをもって任じていながら、国内において道義が退廃し上下の分の乱れがあるのは恥ずかしいことである。」
□三―一七(憲問第一四―四三)
孔子が言いました。
「上の者が正しい生き方をすれば、人々は自然に恭しくなって治めやすくなる。」
□三―一八(里人第四―一三)
孔子が言いました。
「礼は表、謙譲は礼の裏であり実質である。則ち法律と道徳のようなものである。礼と謙譲によって国の政治を行えば、何の難しいこともなく、国が治まらないということはない。もし礼と謙譲によって国が治まらないとうことであれば、それは礼の表の形式だけで、裏の実質にあたる謙譲の精神則ち道徳が欠けているからである。」
□三―一九(学而第一―一二)
孔子の弟子のが言った。
「何事を行うにも、和が最も大事である。人と人との和がなければ何もできるものではない。昔の名君たちの政治も和を重んじた。しかし、事の大小なくそれに従ったが、それだけではいけない。和を重んじ和ばかり図っても、礼法によって節度を守らなければ、やはりうまくいかない。」
□三―二〇(衛霊第一五―三三)
孔子が言いました。
「国を治める見識があっても、守っていくには仁徳が足りなければ獲得した地位も必ず失う。見識があり、仁徳が守るに足り、威儀を正して臨んでも、人民を動かすに礼法をもってしなければ、まだ善政とは言えない」
□三―二一(陽貨第一七―一一)
孔子が言いました。
「世間では礼だ礼だと言うが、その礼は形式的に金品を贈ることではない。
音楽だ音楽だというが、鐘や太鼓を鳴らすことだけが音楽ではない。儀礼や形式よりも心が大切なのだ、音楽の本質は人の心を和らげることにある。」
□三―二二(八?第三―三)
孔子が言いました。
「人としてしみの心がなかったならば儀礼がなんになろう。まごころが表れないならば、そんな音楽が何になろう。」
□三―二三(為政第二―二四の一部)
孔子が言いました。
「かかわりのない神を祭るのはへつらいにしかすぎない。」
□三―二四(八?第三―一二)
孔子が言いました。
「先祖を祭る時には先祖がそこにおられるようにとり行う。神様のお祭りには
神様がそこにおられるようにとり行う。」
□三―二五(子張第一九―一四)
孔子の弟子、が言いました。
「は心からの哀悼を尽くすばかりだ。」
□三―二六(子罕第九―三)
「礼服としては麻の冠が礼法の定めであるが、今は倹約のため絹糸になってきた。このことでは皆なに従おう。主君に対しては宮殿の下に降りて敬礼するのが礼法であるが、今では上で敬礼するようになった、これは不遜である。だから私は皆なに逆らっても下に降りて敬礼する。」
□三―二七(八?第三―一七)
弟子のが毎月のの祭礼で、形式的にだけが供えられていたために、その生けにえの羊を廃止しようとした。そこで孔子は言いました。
「、お前はその羊を惜しむが、私は古来からの重要な礼法の伝統の方を惜しむ。」
□三―二八(八?第三―一五)
孔子は宮廷に入って礼をことごとく聞きただした。ある人が、
「だれがあの田舎者を礼をよく知っているなどと言ったのだ。宮廷に入ったら、たわいもないことをいちいち聞いているではないか。」
と言った。それを伝え聞いて孔子は言いました。
「あのように慎重にするのが礼にかなった作法なのだ。」
□三―二九(八?第三―四)
弟子のが礼の根本について尋ねたとき、孔子は言いました。
「それは重要な質問だ、礼は華やかに行うよりは、むしろ質素でいいのです。葬祭も儀式を整えるよりも、むしろ心から悲しめばいいのです。」
□三―三〇(雍也第六―二五)
孔子が言いました。
「飲酒の礼に使う昔のには角があって量をが少なくなるようにしてあったものだ。しかし今のには角がなくなって大酒になった。それでもというのか、それでもと呼ぶのか。」
□三―三一(陽貨第一七―一八)
孔子が言いました。 「流行の似て非なる紫服が朱服にとって変わるのが嘆かわしい。淫らなの音楽が正当な雅楽を乱すのが嘆かわしい。口先の達者な政治家が、知らぬ間に国家を危うくするのを私は最も憎む。」
0 件のコメント:
コメントを投稿